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知識のあるオカルティストや超心理学者等は、隕石について科学界が強く否定した歴史をしばしば持ち出す。たとえば『アーサー・C・クラーク超常現象の謎を解く』の前書きがそうである。現在、科学界に認められていない超常現象は、隕石の歴史と同様、将来、認められるだろうと言うのである。これは面白い問題を含んでいるので、少し考えてみる。
空から石が降ってくる。それが隕石である。このような報告は昔から多くあった。しかし、天文学や物理学がかなり発達した18世紀の科学者たちは、これを馬鹿げた迷信として信じなかったのである。フランス学士院は空から石が降ってくるなどあり得ないという決議を行ったし、アメリカ独立宣言などを起草し、大統領にもなったトーマス・ジェファーソンは、隕石を報告したアメリカの教授たちに対し、「空から石が降ることよりも、二人のアメリカ人教授が嘘をついたという方を信じる」と述べたといわれる。
隕石に対して科学界が否定的だった理由には、隕石が天からの贈り物でありオカルティックなパワーなどがあるなどと言う人々も多かったこともある。現在では、ごく一部の電波系以外そのような主張はなくなった。天文学を初めとする自然科学が進歩して、隕石についての数多くの科学的な理解が進むと、隕石パワーなどのオカルトが入る余地が少なくなったのである。これは一つの教訓である。
そもそも何もないように見える空から石が降ってくるなどと言うことはあり得るのだろうか。原始人の身になって、素朴な観察や直感から考えると、ありそうもないと考えるのが普通だろう。それでは「空から石が降ってきた」という報告に対して、どう考えたのだろうか。こんどは、これを想像してみよう。
まず、ウソやでっち上げの可能性がある。報告者が信頼できる場合は、錯覚や幻覚という可能性もある。さらに実際に石が降ってきたように見えても、誰かが投げた石かもしれない。鳥などが落とす可能性もないとは言えない。このように隕石を否定する「理由」に事欠かないのである。
私が座っていた席から、旧館を取り壊した後の空き地が見えた。かなり広い。1000平方メートルくらいはあった。新しい建物が建つまでの5、6年間、その空き地を毎日見ながら、私は仕事をしていたのである。その間、その空き地でネコやカラスは見たが、隕石が落ちるのは見なかった。隕石が降ってくる頻度からすれば当然だろう。そもそも私は隕石が落ちるのを見たことはない。隕石の存在は科学界の通説であるということを知っているだけである。だが、自分が見ない現象だからといって、存在しないわけではないし、私は隕石の存在を疑ったりはしていない。
だが、科学界で通説とはいえない希な現象を研究しようとする研究者は、このような難問にぶつかる。仮に、私が日々見ていた1000平方メートルの空き地にできる穴を測って隕石のエネルギーを観察しようとする科学者がいても、時間の無駄なのだ。まあ、1億年も観察すれば一度ぐらいは観察できるかもしれないが。
このような希な現象の存在に対して、「再現性のある観測は可能なのか?」という問いは言いがかりに近い。そもそも再現性とは何なのだろうか。実際に、10億年ぐらい観察すれば、一度ぐらい隕石が落ちるところが観察できるだろう。そういう意味では「再現性」はあるのである。ところが頑迷な否定派は、それは再現性ではないなどと何だかんだと言いがかりをつける。
常温核現象や超常現象も、そのような希な現象かもしれないのである。
○追試可能性
オカルトに大変批判的な人々は、良い追試ができないこと、あるいはそもそも反証可能性が低いことを問題視する。これは極めて説得力があり、かつ正しい疑問点である。だが、しばしばオカルトのような現在の常識に反する説に対する安易な反論として使いがちである。しかし、そもそも追試可能、あるいは反証可能とは何だろうか? ついでに、これを考えてみたい。
一般に検証や反証が不可能とされている超弦理論でも、理論的には太陽系や銀河系ほどの大きさの加速器を作れば、検証や反証が可能である。この場合、検証可能となるのだろうか。「アンドロメダ大星雲には、地球と同じ星がある」という説はどうだろう。実際にいって確認すれば済むことだから、検証や反証は可能だろう。
上の隕石の例で、もっと具体的な学説を考えてみよう。「砂漠でも海でも等しい頻度で隕石が降りそそぐ」という仮説を考えてみよう。これはまず間違いなく正しいが、これを実証するのは簡単ではないだろう。海と砂漠をずっと観察する必要があるのだから。ちなみに人工衛星からの観察によれば「雷が海でも砂漠でも等しい頻度で落ちる」という仮説は正しくないらしい。海を好むらしいのだ。
もちろん、これらは現実的に検証・反証可能ではない。だが、何をもって「現実的に検証・反証可能」というのだろうか。検証や反証の現実性を問うことは、「現実的に」考えてみても、現在の技術的な問題だけでなく、経済や社会的な問題も含むもっと込み入った要因を考えねばならず、その学説の妥当性を考えると同程度、あるいはそれ以上に難しいことである。さらに、現実に行われた実験や観察にいろんな理由を付けてケチを付けることは簡単すぎて、話にもならないことを合わせて指摘しよう。
「常識外れ」の説は、究極的にあるいは後世の歴史から見て不正解である確率が高いので、概して潤沢な予算がもらえない。それに対して、良く確立して近似的に正しいことがほぼ間違いない通説の延長上にある研究には、潤沢な予算が供給される。現在の巨大科学では、加速器や宇宙ステーションのように何千億、何兆もする設備が必要な物が少なくない。これは極端にしても、何百億から数億する実験機器は多いのだ。最近、計画されている宇宙からくる微弱な重力波をレーザー干渉を用いて検出する実験装置は、数百億円の予算を必要とするが、重力波は今まで(誤報はあるが)全く検出された試しがないものだ。だが、一般相対性理論が重力派の存在を強く主張しているため、存在が確実視されており、それを発見するために何百億円もの予算が使われようとしている。素粒子の「アクシオン」だって、今まで検出された試しはないのだが、量子色力学がそれを強く予測しているので、少なからぬ物理学者が少なくない予算と時間を使って追い求めている。逆に「タキオン」は因果率と矛盾することが明らかなので、今更追い求めるまともな物理学者はいない。現在の物理学は理論優先なのである。
多くの超能力者や霊能者の行動をずっと四六時中監視すれば、奇妙な現象がおこるのではないか。少なくても、オカルトの支持者はそう主張している。これは数兆円もあれば十分に可能だが、そんな予算は出るはずもない。
同じように、このような予算があれば、超常現象なり、常温核融合なりを、「追試可能」なレベルで「実証」できるかもしれない。
とはいえ、超常現象が信用されないのは、簡便な検証がないこともさることながら、十二分に成功した実績のある、現時点での自然科学との相性が悪いためである。追試・検証可能性は余り重要ではないと思う。もう十分すぎるほど「証拠」は集まっている。自然科学や工学の分野には、何だかよく分からないが、記載例は大量にあり、それでいて理路整然とした理論も、きっちりとした分類さえもない事柄が大量にあるのだ。
例えば、過去の臨床関係の精神医学は、記載中心の側面があった。世間で有名な多重人格の例にしても、現実にそんな患者にあった人間はほとんどいない。実例も多いとはいえない。少数の医者がそれを記載していて、それが自然科学とあからさまに矛盾するわけではないので、疑問に持つ者が少ないだけの話である。詐欺・かたりやでっち上げ、精神分裂病の異常例など、その記載や概念を無理矢理に疑えば、疑えないわけではない。またドーマン方など、教育関係にはカルト的な主張が多いのだが、あからさまに自然科学に反するわけではないので(中にはあからさまに矛盾するものの多くあるが、主張全体から見て副次的なことである)、その真偽が強く問われることがない。それらは厳密な意味での実証性は低く、代わりに曖昧な実例の宝庫である。だが、それらの実例は、そんなこともあるのかもしれないと思われるだけで、余り検討されない。今まで知られている自然科学の体系と明確には矛盾しないからだ。
私の意見ははっきりしている。どんな分野でも、ある学説の検証や反証可能性を問う者は、ほぼ間違いなくその学説の反対者であり、その学説にケチをつける目的を持つ者なのである。それ以上の意味は全くない。むろん、それで科学は進んだ場合もあるが、必ずしもそうでない。歴史から見て不毛な水掛け論に終わっていることが少なくない。
19世紀後半に熱統計力学を創ったボルツマンは、仮想の物質の最小単位原子をその基礎においていた。それに対してマッハ(音速の単位となった大物理学者で科学哲学者)などはそんな仮想的な単位を基礎とすることに反対した。ボルツマンは様々な論争に悩んで自殺した。原子の実在が認められたのは20世紀に入ってからである。
明確な観察手段がない場合、懐疑派はいつまで経っても納得しないだろう。