オカルトの世界は多様であり、科学の辺縁から何でもありのカルトの世界へ無限に広がっている。しかし、やはりその時代や文化でのオカルト界の多数意見がある。時間もとれないので、過去の読書メモから幾つか抜き出して解説することにする。
 オカルトの世界での発言者には、超心理学者や科学者である人々と、そんな物を気にしない市井の人々とがいる。実際の所、この両者は連続しており、博士号と大学での地位をもっているか、あるいは科学の手法を比較的に重視するのが前者であり、重視しなくて勝手に意見を言っているのが後者なのだ。人口から見れば圧倒的に後者が多いが、発言の重みは前者のほうが大きい。現実にどんな本があるかの例を、今回はインテリ系の本を中心に紹介する。非インテリやオカルトの完全な信者が書いた本は、別の機会に紹介する。



 まずコリン・ウィルソンである。彼は世界的に有名なオカルト作家である。初めは犯罪者についての本を書いていたのだが、徐々に軸足をオカルトに移した。彼の特徴は、とかく理屈っぽいことである。奇跡や奇妙な出来事が淡々と書いてあるわけではないのである。



◎ 199・年●月◆日 『サイキック』コリン・ウィルソン三笠書房、(“The Psychic Detectives”,Colin Wilson,1984
 本書はサイコメトリーに論点をしぼった著書である。サイコメトリーとは、物体からその物体の過去のことを知る能力をいう。透視の変形のようなものであり、事実、区別は難しい。超能力者が行方不明者のハンカチなどから、持ち主の人となり、現在の在処などを探すことがあるが、このような能力を指す。
 本書の最初の方では、彼は盲信的なオカルトの信者たちを批判し、より実証性を重視する方法を採用するように主張している。論理性や整合性、実証性といったものを重視する私としては、これは期待できるかなと思った。確かに始めの方の、オカルトの近代史の記述くらいまでは比較的そうなのである。ところが、だんだん書き進むにつれ、そうではなくなって来ている。(これはよくありがちな事だ。)
 コリン・ウィルソンは疑念の多い超能力者、例えばユリ・ゲラーをも、強い調子で擁護している。私にはこれが公平な立場だとは、到底思えない。また、エドガー・ケーシーはかつて、1999年までには強烈な天変地異のせいで、日本とカリフォルニアの大部分が海底に沈み、代ってアトランティス大陸が浮上するという未来予言を行っている。これは現代の地球物理学の大成果たるプレートテクトニクスと真っ向から対立するとんでもない代物なのだが、これに対しても、彼は積極的に否定をせず、この予言が当らない方が幸いであるとの消極的否定に留っている(彼はどうも現代科学をそれほど信じていないようだ)。概して、後に行くにつれて超常現象に都合の良い事実ばかり述べて、矛盾する点や否定的事実を上げなくなって来ている。
 そして最後の方になってくると、物質機械的な宇宙観や生命観、そしてダーウィニズムに対しての激しい敵意が感じられるようになってくる。
 私の結論としては、コリン・ウィルソンは超常現象を信じたいのだ。なぜなら、超常現象の存在は、機械的な生命観や無情なダーウィニズムを否定することにつながるからだ。そして、コリン・ウィルソンが密かに、しかし強烈に哀愁をもっている目的論的世界観の復権につながるからだ。ところが一方では、彼は合理性や実証性と言ったものが何たるかを知っている。これが彼をして、ある特定のオカルトの体系を無条件に受入れさせることに抵抗しているのだ。
 このダブルバインドの状況が、この著作の前半は超常現象について控え目で合理性や実証性の必要を述べながら、後半は肯定的意見一色になると言う変化の由来なのだ。
 私がこの著作を読んで学んだ最大のことは、オカルティストには超常現象を信じたいと言う強力な欲求があることが多いと言うことであった。(終わり)




◎1998年□月▼日 『死後世界の探求』ミラン・リーズル、徳岡知和子 訳新評社(1997)(Ryォzl Milan (1981),Der Tod ist nicht das Ende, Arison Verlag, Kreuzlingen.)
 古典的な科学者出身の超心理学者による霊現象に対するESP仮説の著書。1981年にドイツで出ているので少し古い。ESPを脳神経細胞の未知の働きによりESP機関が創られ、それが時空を越えて情報やPKを引き起こすとしている。前世も霊もすべては生者のESPによって説明できるとしている。だが、後半になると霊魂仮説にだんだんと寛容になってくる。書いているうちに考えが変わったのだろう。言っていることが前半と後半で矛盾しているが、まあ長い著作にはありがちなことだ。最後のほうでは進化論に敵意を表し、予定調和的な生気論に傾くのみならず、ありきたりなオカルト哲学を展開している。全体的に冗長な駄弁が多く、つまらない。私は(自然科学者である著者もそのはずだが)、人生の愛だの調和だのといったオカルト風道徳訓は聞き飽きている。
 そのオカルト哲学が人類の精神的な進化に収斂していくところは、アメリカで臨死体験を研究している超心理学ケネス・リングにそっくりだ。こうなってくると、彼らが平均的な科学者に受け入れられることは不可能に思える。
 ちなみに付録に、超越世界を探る手段として高いESPの能力者に催眠術をかけて質問したことを述べている。彼の説はここからヒントを得たようだ。理系の学者が、能力者と運命的な邂逅をはたし、彼らの話す奇妙な世界観を受け入れることはオカルトの世界では頻繁に起こっている。著者も、実験体だったはずの霊能者の世界観に引き込まれたのだろう。(終わり)





 レイモンド・ムーディーは、臨死体験研究の大御所である。彼が事実上、アメリカでの臨死体験研究を始めたと言って良い。むろん、結論はありきたりの「死後の世界はある」ということを暗示する物であり、様々な批判も多いが、霊などの存在を考えるときは避けて通れない。彼の著書も紹介しよう。


◎1998年6月□日 レイモンド・ムーディー『死者との再会』同朋社出版
 ダニオン・ブリンクリー『続未来からの帰還』などで紹介されていたレイモンド・ムーディー『死者との再会』を見つけたので、買って読んだ。面白くない。
 ギリシャ時代から行われていた鏡視の手法で、複雑な思いを残しながら亡くなった家族と再会し、精神的な癒しを得ることができるというのが本書の主題だ。鏡視とは、簡単に言えば鏡や水晶玉のように写るものを暗いところで見て、そこに浮かんでくる映像や幻影を見ようという手法である。古代ギリシャの神託や、ヨーロッパ中世以来の水晶玉などと共通点を持つ。それを大規模な施設で実行しようというのである。
 鏡視の歴史や作り方、それを試してどのような癒しが得られたかが漫然と書いてある。驚愕の例などには触れてない。ムーディーは懐疑派からの批判の嵐を受け、霊的、超常的な側面には深入りしない無難な方針に変更したらしく、鏡視が世間に受け入れられるように宣伝に努めているだけだ。それも超常現象ではなく「癒し」としてである。この「癒し」は、日陰者のオカルト行為が、現在の科学や医学と折り合いを付ける、あるいは詐欺として告発をさけようと擬態するときの常套手段になっている。彼もこのやり方を踏襲したようだ。
 私が疑問なのは、臨死体験と同様に、鏡視で出てくるのは死者だけでなく生者もあったのではないのかということだ(臨死体験の報告を細かく読むと、あの世で死者だけでなく、なぜか、まだ生きている人間にも会っている事例が少なくない。とりわけ子供の臨死体験者には、まだ生きている親や友達に会っている事例が頻発している)。このような点について何も述べられておらず、都合がいい例だけをとり出したという疑念が残る。出てくる死者も、生前のありのままでなく、姿も性格も理想化されたものだ。これは出てきたのは実際の霊ではなく幻覚を臭わせる。
 ところで『続未来からの帰還』でブリンクリーは、ムーディーの鏡視を軌道にのせるまで多大な貢献をしたように書いてあるが、ムーディーの書いた本書には一言も触れていない。このギャップは何だ。ブリンクリーがほら吹きなのか!(終わり)



 ちなみに上の文章に出てくるダイニオン・ブリンクリーは、雷に打たれて臨死体験をして超能力者になった、強い個性を持つ超能力者である。彼のこともいずれ紹介したい。
 「生き霊」の概念は日本以外、とりわけ欧米では余り一般的ではないので、懐疑派から霊現象に対する否定的な事例と容易にみなされる。だから、実際には生者を見る例が存在しても、熱心には報告しないようだ。